尾治とおるメモ

物語を一から創作する。自分のメモとしても、皆様にも楽しんでいただけるよう誠心誠意込めて綴ります。

自己紹介。

初めまして、尾治とおるです。


今回は自己紹介ということで、適当にお話をします(かなり適当ではありませんが)。
長文にはなりますが、ご興味ある場所だけでも構いませんので、
ぜひご感想や実体験など、お気軽にコメントして頂ければと思います。


小学生の頃

小学生の頃から国語全般に疎かにしていた。
文章読解から漢字テストまで、宿題を一切しないという徹底ぶり。
国語が出来ない要因はコミュ障であるから?と常に疑問を抱く。


太鼓の達人」を宿題をやらず必死で取り組んでいた。
おそらく小学5~6年生の頃が一番上手であった。
6年の頃、友にゲームセンターに連れていかれ、アーケード版を初めて触れ感動した。
このことを両親に土産話で伝えたら、小学生で行ってはいけない場所であると怒られた


中学生の頃(ここが一番長い話)

中学になり新たに出会う複数の人間と学生生活を共にする、
私は其の頃から中学時代の良い思い出、良い記憶が殆ど無くなった。
原因は周囲の差別である。


己への差別も勿論(?)あったが、
私が大切にする友達へ多くの人間が差別をしていたことが一番であった。
私はそれに耐えられなかったため、1年の後半から学校を徐々に休むようになる


休むようになるのは、中学に始まったことではないが(小学生の頃から休み癖はあった)、
2年では殆ど学校の授業を受けることなく、自宅で「太鼓の達人」を満喫していた

不登校

2年から全く学校へ行かなくなった理由は一つである。


1年の冬は全く学校へ行っていなかったため、
私は2年の始まり、始業式へ向かうためクラスごと廊下へ名簿順に並び、
一番最後に並ぶ私を見て別のクラスの2名が
「アイツ誰?wwwwww」
と笑いながら聞こえるように話していたことである。
3~4か月ほど学校に通っていなかったこともあり、私は居ない存在であった。
だから仕方がないことである(と言い聞かせている)。


しかし其の言葉に私は大きく歪んだ


其の頃の思い出というものは、

  • 中学の建物内ではあったもののカウンセラーの方とお話をしていた
  • 学校には通えない子たちの支援学級?のような場所での学習(国語が嫌いな私は、好きな数学のみ受けていた)
  • 他は記憶から消えてしまった

中学校最後の年

カウンセラーの方のお陰で、3年からはそこそこ通学できていた。
進学の際に必要となる内申点を気にするため、また私自身の高校進学のためである。
それでも身体への影響はあった、大きな蕁麻疹に3回も悩まされた。


授業中に私は寒気を催し、休み時間に保健室へ行き身体の不調を訴え、
背中にユーラシア大陸ほどの赤い腫れのようなものができていた(と先生から教えられた)。
2回目は深夜に発症し、足裏の蕁麻疹が我慢できず深夜病棟で、急所“ぶっとい”注射器で痒みを抑えた。
3回目は小さな蕁麻疹が様々な場所を転々としていたため、もう慣れたと思い気持ちを押し殺していた。


此処までの話の結論は、
思い出というものは、この上なく自慢にならないものである。


高校生の頃

高校の頃の話は全て面白くない。
というより大きな事件は無かった(カーストは底辺だと自負)。


文化祭では、美術部で下手な絵を描かずに造形物をひたすら造り、適当に過ごしていた。
部活の友と放課後「ロミオの青い空」を何日にもわたり友のスマートフォンで視聴した。
これが一番の思い出である。
しかし友のデータ使用量がどのくらい使われていたのか心配である、今でも。
(少しばかり茶道部にも在籍したが、なんとなく黒歴史のため割愛。)


短期大学生の頃(中学生の頃に通ずる)

短期大学では建築を学ぶことになった。
本当は高校の頃好きであった車に関する仕事を探し、整備士やカーデザイナー、
はたまた数学科で数学のみに耽る人生もアリ?と色々考えたが、結局そうなった。
数学とデザインの共通性を考え、“気まぐれで”そうなった。


短期大学は良い経験もあり、また新たな友も作ることはできたが、私の身体は再度歪んだ
2年になり、人間が多く在籍する場所で疲れ果てた私は、学校もアルバイトも疎かになった。
家に引きこもる私は、家族に噓をつきながら半年間殆どを寝て過ごしていた。


引きこもった結果

卒業制作は提出できなかった、提出当日に噓が公になり家族から電話の嵐であった。
親からは「半年もの間、嘘をつかれていたと思うと悲しい」という電話が来た。
私は其の頃、脳のストレスが尋常ではなかった為、涙が止まらなくなっていた。


私には一人暮らしができないのかな?と今でも思っている。
次にその機会があるならば、細かな条件を考え、危険に備えなければなるまい。
だが残念なことに、大抵の危険は思いがけないものである為、
その備えは意味のないものと化す


2年が終わったのち、短期大学は半年休学を頂き、その間学費を稼ぎ、
後の半年で実家で卒業制作を完成し、無事卒業することができた。
その間も様々な方に“迷惑オブ迷惑”を沢山かけているが、割愛。



以上において、中学校から短期大学の時代は、ずうっと鬱病チックであった。


今現在

現在Lv.23になり、そのような人生で良かったか?と問われると、
結局、人とのコミュニケーションを壊すのが“得意であったため、
正直どちらでも良いという結論である。
得意というのは、意識的・無意識的両方に言えることである。
であるから得意と言える。
潜在的なものと断言できる。

無駄を排除

自分を創造する様々な問題を、近頃は皆50%が遺伝、その他50%が育つ環境という。
そんなに遺伝するか?と考える。割とそうかも?とも考える。


この事をふと考えてみるが、これは大いに“時間のムダ”である。
(学者が遺伝について追及する分には大変重要なことである。)
であるからして、私はもう後に引かないことにする。
そしてこの記事から前を向き、制作を始める。
無論、学生時代に得た知識は大切にしようと思う(ここ重要)。


今後の自分(どうでも良い話)

今現在は在宅ワークで最大25000円(のみ)を稼ぎ、
要らない本や雑貨をメルカリで出品し、最小限で暮らしている。
収入は奨学金・無利子ローン返済・語学テキスト等々に使用している。
また実家で平日の食事準備(主に夕飯・弁当のおかずの作り置き)、
その他家事などをしている。
しかしこの状況が続くのは如何なものか?と常に頭を抱えている。


最近は制作をする過程でアルバイトを始めてみようと思う(かなりどうでも良い情報)。
外との関りが買い物ぐらいしかない“ほぼ無職”が新しいモノを生み出すには、
少なからず資金が必要である。


ここでの活動内容

以下に制作をするにあたり、決まり事をまとめる。

  1. iPadではラフ絵、物語のネタなど簡単にまとめつつ、ここに記事として記すこととする。
  2. アナログ絵や模型などは写真に残し、ここに記事として記すこととする。
  3. 制作で必要とする(かなり重要!)、参考・テーマにしたMUSIC(佐野元春さん、稲葉浩志さん等々)を紹介し、ここに記事として記すこととする。
  4. キャラクター設定は細かく決定づけてしまうため、忘れないよう、または変更などをここに記事として記すこととする。


まとめ

此処まで細部にわたり私自身を知り理解した方は恐らく居ないと思いますが、
読破した方は(いい意味で)変態だと思います。


結論、

  • 物語を創作する設定やネタなどをここに記事として記す
  • Lv.30までに大作と言える作品を造る
  • 自分用にメモするような書き方でもおk

ということ。
今後はスマホや紙のメモに残すのではなく、ここに残していきます。
その方が(自己満足?)意欲も目標も決められるので。


こういった決まりを定義してしまう私は、
極論ストレスが気持ちいいと感じてしまう病気なのかもしれません。


本日は以上です。
                                  尾治とおる

×

非ログインユーザーとして返信する